お伝えしたいこと
自然栽培? 有機栽培? 慣行栽培?
【 与えられたもので育つのか? それとも ・・・
自ら必要なものを探し求め、取捨選択したもので育つのか?】
≪ ❶ 自然栽培(無農薬・無施肥) ≫ ≪ ❷ 有機栽培 ≫ ≪ ❸ 慣行栽培 ≫
ほとんどすべての人が、❶と❷は、農薬と化学肥料を使わないという意味で同じ括りをしています。
(有機栽培が無農薬・無化学肥料というのは大きな誤解なんですけどね、ここではその話は別として)
しかし、私はこう考えます。
❷と❸は、与えられたもので育つが、❶は、何も与えられずに自ら必要なものを探し求めて、自ら取捨選択し、さらには必要なものを体内や土中に作り出す。
❷と❸は与えられたもので育つという意味で同じ括りになります。
(ここで言う≪自然栽培≫は、にんぽう倶楽部の基準ということを前提にしています)
話は逸れますが、『対症療法』という言葉、健康や環境を安全面から考える人たちが良く使いますよね。
現代医療は『対症療法』、だから代替医療を選択する。
これって、現代医療を慣行栽培に、代替医療を有機栽培に当てはめて考えることができませんか?
よくよく考えると、代替医療も対症療法そのものではないですか?
病気や怪我を点で捉えて、その点を、有害無害に関わらず何かを使って抑える、ということですよね。
多くの人は、代替療法を自然療法だと思っている。
本当の自然療法とは ・・・ 何かのために何かをするのではなく、当たり前の日々の生活の中で、身体が勝手にバランスを整えていくことではないだろうか?
痛みを抑えるために何かをするのではなく、身体が身体全体のバランスを整えながら少しずつ痛みが消えていく、ということではないのだろうか?
問題は、【当たり前の日々の生活】です。
有害なものを摂取したり使用したりすれば、身体がバランスを整えることができなくなる。
整えることができないから、何かを使って抑えようとする。
だったら、何かを使って抑えなくても ・・・ 有害なものを摂取したり使ったりしなければいいだけのこと。
不思議なことに、ここに思い至る人がほとんどいない!
これが、現代社会の悪循環の原点なのでは! 私はそう思っています。
表題の
【与えられたもので育つのか? それとも ・・・ 自ら必要なものを探し求め、取捨選択したもので育つのか?】
これは、健康や環境だけでなく、人の成長についても同じなのでは!!!
学校や家庭で、
「こういう時にはこうするんですよ!」
「こういう時にはこう言うんですよ!」
「これが正しくて、これが間違っているんですよ!」
と教えられ(与えられ)、それが正しいことだと思い込む。
このような与えられたものだけで育った人たちが社会を形成する。それが今の日本社会のような気がします。
これって、慣行栽培や有機栽培だと思いませんか?
生き方の対症療法だと思いませんか?
【自ら探し求めて、自ら取捨選択して、自ら作り出す】という機会をことごとく奪われてしまっている子どもたち。
大人になってその機会を得ようとすると、並々ならぬ社会からの外圧がかかる。
そしてモノ言わぬ人たち(その多くは、陰口は叩く)が醸成されていく。
モノ言わぬ人たちが増えることで、権力者や利権者の独断がますます酷くなる。
自然栽培の農業をしている人たちや、自然栽培商品を販売している人たちの多くも、実は対症療法的な生き方をしている。
しかし、代替療法を選択する人たちと同じように、そのことに全く気付いていない。
では、自然栽培の生き方とは??? 自然栽培の人間付き合いとは???
誰かに何かを与えてもらうのではなく、自ら探し求め、取捨選択し、ときに自ら作り出す、ということだと思います。
ここで言う“何か”とは、主に、考え方やモノの見方のことです。
「でも、自ら探し求めるためには、何かきっかけを与えてあげないといけないのでは???」という声が聞こえそうです。
これも対症療法ですよね!
きっかけは、誰かが与えるものではなく、日々の生活の中で知らず知らずのうちに自ら湧き上がる・出来上がってくるものなのです。
そういう意味でも、学校という現場は、対症療法人間増産現場、と言えるのでは???
家庭教育も、我が子を対症療法人間に仕立て上げることに邁進しているのではないだろうか?
わざわざきっかけを作るのではなく、日常の当たり前の生活の中で、子ども時代から、いろんな年代の・いろんな人たちと関わりを持てるような社会であって欲しいと思っています。
それが、自然栽培の生き方ができるようになるための基本なのでは!!!
機会があれば(気が向いたら)、いずれ、もっと具体的に書こうと思います。
2024.12.20